FullSizeRender
RADWIMPSの評価をネット掲示板などで見てみると独創性のある楽曲の世界観が支持される一方で批判的な意見を持つ所謂アンチの存在も目立つ。「BUMPのパクリ」「厨二病」「ボーカルがメンヘラ」といったコメントが羅列する中で圧倒的に多いのが「歌詞が気持ち悪い」という意見。確かに野田洋次郎の書く緻密な歌詞は圧倒的な言葉数と唯一無二の表現で良くも悪くもリスナーに衝撃を与える。2005年のメジャーデビュー以降、本当に様々な楽曲を世に送り出してきた彼らだがその中でも「歌詞が気持ち悪い」の代表格を担う楽曲が存在する。RADWIMPSの「五月の蝿」。2013年にEMI Records Japanからリリースされた通算16枚目の両A面シングル『五月の蝿 / ラストバージン』からの1曲。皆さんは知ってますか?聴いた事ないという方はこの記事の下にYouTubeの方を貼っておくので良かったらお聴きください。

2日ほど過ぎてしまったが先日の10月16日で『五月の蝿 / ラストバージン』は発売から5年という1つの節目(?)を迎え、自分も1人のファンとしてこの曲への想いを残さなくてはという衝動に駆られた。本来ならば「五月の蝿」と「ラストバージン」を抱き合わせた形で紐解くのが筋なのだが、このブログでは徹底的に「五月の蝿」にフォーカスして行きたい。僕がこの曲に関してここまで語り尽くすのもこれが最初で最後になるかもしれない。このコラムでは歌詞の解釈どうこうとかではなく「五月の蝿」が世に送り出されてから5年経った今現在だからこそ見えてきた「五月の蝿」の功罪を思慮していく。どうぞ最後までお付き合い下さい。

五月の蝿
2014-06-25


発表された当時はあまりの衝撃から大きな話題を生んだRADWIMPSの「五月の蝿」。歌詞の内容を見てみると《僕は君を許さないよ / 何があっても許さないよ》というフレーズで始まり《君が襲われ 身ぐるみ剥がされ レイプされポイってされ》《死体になった君を見たい》《溢れた腑で縄跳びをするんだ》などといった憎悪に満ち満ちた衝撃的なフレーズが吐き出されていく究極のヘイトである。そりゃ気持ち悪いって言われますわ。僕も素直にそう思います。

ただそう言った歌詞の言葉尻だけを切り取るのではなく最後の一語一句まで聴き込むと「五月の蝿」がただ気持ち悪いだけの曲ではないと気付かされる。「五月の蝿」は今でも様々な憶測が飛び交い色んな解釈がされているが過去のインタビューでも語られているように野田洋次郎にとって「五月の蝿」はラブソングなのである。RADWIMPSがこれまでリリースした楽曲の中にはラブソングは数え切れない程あるがその中でも「五月の蝿」はかなり異色だ。彼らの代表曲である「ふたりごと」や「有心論」を挙げてみても分かるが、野田洋次郎の書くラブソングというのは僕と君というパーソナルな世界で生まれたイノセントな感情を壮大なストーリーへ展開させ、そこには一切の汚れも許さないような潔癖さを持ち合わせている。一方で「五月の蝿」はラブソングでありながらも終始吐露されるのは君に対しての毒々しいヘイトであり、これまでとは真逆のロジックで愛が語られているのだ。これまでのRADWIMPSには無かった革新的なラブソングとして仕上がっている事は大きな功績といえよう。

あと「五月の蝿」の功績を挙げるとしたら、こう言った曲をメジャーシーンのど真ん中に居て尚且つカリスマ的な人気を誇っているバンドがシングルとして世に送り出せた事実だろう。因みにオリコンチャートでは3位という好成績を残している。シングルで出したいと言い出したのは野田本人であり、当初他のメンバーはシングルにする気など無かったという。野田も凡ゆる場面で感謝を述べているがその提案を快諾したスタッフも凄い。誰もが簡単に自分の意見を発信できるこの御時世にここまでディープな楽曲を届けられるのはある意味RADWIMPSとしての、ロックバンドとしての自信なのだろうか。

じゃあ「五月の蝿」が犯した罪過とは一体何だろうか。単純に歌詞の表現が過激すぎた事による一定数のファン離れやアンチの増加なども勿論あるだろうが、僕が考える罪過とはRADWIMPSは「五月の蝿」で何か勘違いされ易いバンドになってしまったのではないかと。自分がそういう想いを抱き始めたのはここ1、2年の話である。例えばRADWIMPSが劇中音楽を担当した新海誠監督の長編アニメーション映画『君の名は。』(2016)。主題歌の「前前前世」が大ヒットした事でRADWIMPSに向けられた明るいバンドというイメージが気に食わなかったのか一部のリスナーがTwitterなどで「RADWIMPSはこういうバンドです」とでも言うように「五月の蝿」を持ち出したことがあった。バンドの多面性を示唆する目的であるのなら未だしも、ああいう勧め方には悪意を感じざるを得ない。先程も述べたがRADWIMPSの中でも「五月の蝿」は異色作だ。そんなイレギュラーな楽曲がさもRADWIMPSのスタンダードかのように扱われ、『君の名は。』で彼らに興味を持ち聴き始めた方々を只々ドン引きさせる為の玩具になっている状況に僕は妙な虚しさを覚えていた記憶がある。

今年の中旬に騒がれた「HINOMARU」を巡る一連の騒動でも自分は似たものを感じる事となった。そもそも「HINOMARU」の騒動を超簡潔に纏めると歌詞の中に戦争を想起させるような表現が織り込まれていた事で愛国ソング!軍歌!などとネットで批判が殺到し、野田洋次郎が自身のSNSで釈明のコメントを出す事態になったのである。RADWIMPSを批判するのは所謂ネット左翼の方々であり、その餌になったのが「五月の蝿」であった。「五月の蝿」の歌詞に出てくる攻撃的で狂気染みた言葉の数々は野田洋次郎という人間の異常性を訴えるのには充分だったのかもしれない。「HINOMARU」と抱き合わせた形での批判がかなり多く見受けられた。これらは「五月の蝿」が犯した罪過というよりも「五月の蝿」を取り囲むリスナーの罪過なのかもしれないが。

RADWIMPSの「五月の蝿」に纏わるエピソードとして最後にこれだけは書いておきたい。ライブ映像作品『RADWIMPS LIVE&DOCUMENT 2014 ×と○と君と』に収録されているライブ映像で「五月の蝿」を披露する直前、野田はこの曲についてこのように語っている。「この曲はあなたの中でどういう曲になるか分からないけど、記憶から忘れ去られてもいいと思う。たまにこの曲が思い出されて、ひぃっとして、うっとして、苦しくなって、大事な人に会いたくなったら、多分この曲が生まれた意味があるんじゃないかなと思ってる」この曲を愛した全て人たちが少しでもその真意に近づけますように。(やまだ)


(RADWIMPS「五月の蝿」Music Video)