RADWIMPSにとって『RADWIMPS 4〜おかずのごはん〜』以来3年ぶりのオリジナルアルバムとなった『アルトコロニーの定理』。今作はこれまでのアルバムの流れを踏襲しながらもそれ以上に繊細でディテールに拘って緻密に創り込まれたエポックメイキングな作品である。今作で鳴らされている前作以上にタイトでトリッキーなサウンドはRADWIMPSの音楽性を格段に拡張し、後に彼らの代名詞とも呼べる代物になった。高校生バンドマンなら誰しも一度はコピーしたであろうイントロのギターのリフが印象的な「おしゃかしゃま」も今作に収録されている。
正直この『アルトコロニーの定理』についてブログを書こうと思えば腐るほど書ける。収録曲の1曲1曲を深く掘り下げても良いし、このアルバムが製作されるまでの“桑原事件”に象徴されるようなドラマを書いても良いし、彼らが今作でメジャー以降初めて直面したスランプを書いても良い。ただ今日2019年3月11日で『アルトコロニーの定理』が10年という節目を迎えるという事を受けて、この記事では10年という年月を俯瞰して今作に対する想いを綴っていく。
極論を言えば『アルトコロニーの定理』を製作していた頃のRADWIMPSと現在のRADWIMPSはまるで違う真逆のバンドだ。面白いくらいにベクトルが違う。一言で言えば『アルトコロニーの定理』というアルバムはかなり閉鎖的なアルバムだ。『人間開花』('16)や『ANTI ANTI GENERATION』('18)で見せている開放的なバンド像とは似ても似つかない彼らがそこにいる。あの時期にバンドがとことん閉鎖的な状態にあったからこそ、そこを対象化にして現在の開けたバンドのモードがあるのかもしれないが。
一音一音がそこにある意味をとことん追求し、4人からそんな意味のある音が降ってくるまでスタジオで何時間、何日間でも只管に待つという気の遠くなるような作業の積み重ねで今作は形成されてる。その反動から出来た「叫べ」などのシンプルな8ビートを刻む楽曲も収録されてはいるが、後にも先にも『アルトコロニーの定理』はRADWIMPS史上最も突き詰められた1枚になったと言って良い。
それ故にRADWIMPSに歪みが生じる事となってしまった。野田が自分に対する期待を必要以上にバンドメンバーに求めてしまった為にギターの桑原彰がバンドを辞めると言い出したのだ。これが2007年の夏頃に1回と『オーダーメイド』が初のオリコン首位を獲得したその日に1回。マネージャー、ベースの武田とドラムの山口の猛説得で何とか桑原はバンドに戻ってくるがバンドのコンディションは決して良いとは言えなかった。この一連の騒動はRADWIMPSのこの後の活動や野田洋次郎が抱く理想のバンド像にも多大な影響を与える事になり6thアルバム『絶体絶命』へと繋がっていくのだがそれはまた別の話。
それまでRADWIMPSで一貫されてきた『バンド名+数字〜副題〜』 という1つのフォーマットを崩して題された『アルトコロニーの定理』というアルバムタイトル。今までにない音域の歌を歌えた意思表明として音域の意味である“アルト”、集合体というニュアンスを取り入れた“コロニー”、そして野田がこれから生きていく上で何かの問題に直面した時にそれを解決するヒントに今作がなるのではないかという想いから“定理”という言葉が添えられている。
このアルバムにはロマンティックなラヴソングもあれば、謎解きの曲もある。人類の暗部を暴く曲もあれば、目の前で絶望している“君”に手を差し伸べる曲もある。当たり前の日常を歌った曲もあれば、何処かの誰かさんとの対話を克明に記録した曲もある。人が毎朝歯を磨くように、人が毎日ご飯を食べるように、そうして歴史が繰り返されるように。そんな普遍性に満ちた「生きるためのアルバム」であると僕は今作を聴く度に感じる。肯定も否定も諦めも挫折も喜びも。生きていれば誰しもが経験するトピックスの1つ1つに寄り添って発売から10年が経った今日もこれからも『アルトコロニーの定理』は誰かにとっての救済で在り続ける筈だ。(やまだ)
(RADWIMPS「タユタ」Music Video)
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