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  2020年3月11日、RADWIMPSがYouTubeに新曲「世界の果て」をアップした。9年前の3月11日に発生した未曾有の大震災で日本中が悲しみと混乱に包まれる中で野田洋次郎 (Vo.) は応援メッセージと義援金を募る特設サイト『糸色-Itoshiki-』を開設。そして震災から1年が経過した2012年の3月11日には新曲「白日」をYouTubeにて発表し、それ以降(年によって例外はあるが)3月11日に新曲を発表し続けている。

  そして今年も3月11日にRADWIMPSから新曲が届けられた。タイトルは「世界の果て」。単刀直入に感想を述べるなら凄い曲だ。終始ピアノの伴奏と無機質な打ち込みが繰り返され、そこにホーリーなコーラスとノイズが何の違和感もなく併存、更には閉塞的で重々しい言葉が乗っている事でディストピアな世界を想起させられてしまう。だが僕は正直この楽曲を聴いた時に物凄い違和感を覚えた。当時は言葉で形容し難い違和感だった。その違和感は3分11秒という意図的としか思えない演奏時間にある。陋見ではあるが本稿では過去の3月11日に発表された楽曲も踏まえて今作に抱く違和感について綴っていく。

  そもそもRADWIMPSにとって、野田洋次郎にとって3月11日に発表する楽曲とはどのような意味を持っていたのだろうか。大震災から1年後の3月11日に発表された「白日」は行き場を失った怒りや悲痛な叫びにそのままメロディが乗ったような1曲で、終盤にある《そもそもこの声はさ どこに向かって歌えばいい》という歌詞には3.11を歌うことに対する彼の迷いが垣間見えた。また2013年に発表された「ブリキ」では《今は悲しければ悲しいほど 苦しければ苦しいほど 僕が僕でちゃんといられる》、2014年に発表された「カイコ」では《世界は疲れたって あとはもう壊れるだけ》と内省的な感情が吐露されていった。このように混沌とした世界に対する諦念やそこに生きる人間の業をアイロニカルに歌う楽曲が滔々と続く中で2015年に発表された「あいとわ」は大きな到達点だった。《原発が吹き飛ぼうとも 少年が自爆しようとも その横で僕ら愛を語り合う》あの震災の影響でその安全性が問題視されていながら現在も動き続ける原発、世界の何処かで今でも行われる戦争、その正義の名の下で自爆テロを起こす幼い少年。そんな風に狂い続ける壮絶な世界と同じ時代に生きながらも、その悲劇を横目に愛を語り合うことへの肯定。それはあの日に失われた何万という命に、悲しみに、嘆きに、痛みに目を背けず歌い続けたこのバンドだからこそ、野田洋次郎だからこそ辿り着いた彼なりの3.11との向き合い方であり「白日」で投げ掛けられた《そもそもこの声はさ どこに向かって歌えばいい》の最適解だったように僕は思う。彼らが3月11日に発表してきた楽曲は必ずしも東日本大震災に特化したものではない。野田洋次郎が世界と目を合わせて語り合った末の産物なのだ。

  新曲「世界の果て」について野田はこのようなコメントを寄せている。「今年も変わらずあの3月11日に想いを巡らせ、そこに『今』の空気を混ぜて1つの曲にしたいと思いました」先述したように野田洋次郎が世界と目を合わせて語り合った末の産物という点で「世界の果て」のコロナウィルスに翻弄される現代を反映したクリエイトは自然だったように思うし、このコメントも頷ける。だが2分46秒で画面が暗転し、3分11秒でスローテンポなアウトロが突然切られ楽曲が終わるというこれらの演出は如何しても飲み込めなかった。ディテールに拘ったそれらの映像演出を素直に受け入れるのなら当たり前の日常が突如終わってしまう事の暗示なのだろうが、現代の絶望的な空気感に3.11をこのような形で紐付ける必要は無いのでは?と僕は思ってしまうのだ。

  何故ならRADWIMPSが3.11を抜き差しならない絶望感で歌うフェーズは終わった気でいたからだ。2016年に発表された「春灯」は「あいとわ」の延長線にある幸福が丁寧に歌われた事で長く続いた暗晦な季節に春の訪れを感じたし、そこから2年間の空白を置いて2018年に発表された「空窓」の福島県立浪江高校の最後の卒業生から届いた言葉を基に制作された歌詞では日に日に風化していく3.11に対して後ろめたさを感じながらもそれを否定する事なく3月11日だけは心から悼むという被災者の“今”と“これから”を如実に描いてみせた。また2019年に発表された「夜の淵」はこの年に日本で相次いだ様々な災害によって普通の生活と当たり前の幸せが奪わてしまった人々の心の拠り所として届けられた事は記憶に新しい。


  3月11日に発表される楽曲達が誰かに救いの手を差し伸べる側面を強めている一方、世界への諦念と絶望感が漂う「世界の果て」では演奏時間で3.11という数字が明け透けに可視化され、3月11日に紐付けされている。僕が抱いた違和感はそれだった。その紐付けは半ば強引にも思えたのだ。勿論、あの震災を通して抱いた絶望や混乱を忘れずに若い世代に伝えていく事は我々に課せられた課題だが、RADWIMPSに関して言えば3.11の絶望も混乱もタイムレスな音楽として残してきた訳で、それらをこの期に及んで呼び起こしコロナウィルスに翻弄される世情と併せて発信する意義がイマイチ掴めなかったのである。また「白日」から続くYouTubeでの新曲の発表、野田がソロワークスで制作した『UBU』など、野田がこれまで何千、何万という言葉数で紐解いて来たあの震災が演奏時間という形で記号化されてしまった事にも違和感というか少し寂しさを覚えてしまった。

  無論、RADWIMPSが3分11秒という演奏時間に込めた想いを汲み取る事はできる。特に今年はコロナウィルスの感染拡大を危惧して予定されていた東日本大震災九周年追悼式の開催が中止になり、例年までのような国を挙げての追悼が困難になってしまった中で「世界の果て」が発信する3分11秒のメッセージに感化させられ、震撼したリスナーは少なくないであろうし、何年経ってもRADWIMPSは3.11を忘れずに世界を歌い続けるという意思表示のように解釈することも出来る。これからも野田洋次郎は3月11日が近づくと世界と睨み合いそこで生まれた感情を音楽で届けるのだろう。ただ、ただ、RADWIMPSの「世界の果て」に関しては演奏時間も踏まえどうしても釈然としないものがあるのである。(やまだ)


(RADWIMPS「世界の果て」Music Video)