IMG_2622
  RADWIMPSが5月8日にテレビ朝日系列で放送された『ミュージックステーション』に書き下ろしの新曲「新世界」を提げて出演した。他のミュージシャンがコロナウィルスの感染拡大防止の為にリモートでの出演をする中、RADWIMPSはメンバー間のソーシャルディスタンスや無人カメラなど最大限の対策が講じられた状態でスタジオから生演奏を届けた。出演オファーを受けて急遽制作された新曲「新世界」は打ち込み主体のトラックに野田洋次郎 (Vo.) の犀利なリリックが乗せられた楽曲であり、彼らが今年の3月11日にYouTubeで発表した「世界の果て」の音像と非常に近いものを感じる。以下の埋め込みは僕がMステが放送された翌日にしたツイートだ。ここで言う“意味不明”とはdisでも何でもなくこの楽曲に対する僕の正直は感想であった。“意味不明”という気持ちが今も解消された訳ではないが、本稿ではこの曲に僕が抱く疑問点を綴っていきたい。

  RADWIMPSの「新世界」を聴いて僕が最も困惑したのが《「僕と君なら きっと越えて行けるさ」そう言った君の声が 細く震えていたんだ》という冒頭のリリックである。普段はあまり閲覧しない歌詞考察サイトなども幾つか巡回したほどであったが、歌詞考察に特化したサイトであるにも関わらず何故かこのリリックをろくに思慮せずに流してる記事ばかりで驚いた。「僕と君なら きっと越えて行けるさ」 という台詞の発言主が“君”なのだとすると、語り手が指す“君”とは一人称を“僕”としている人物だという事になる。もしもこれが《そう言ったの声が 細く震えていたんだ》というリリックであれば何の問題もなかった訳だが(伝われっ!!)。つまり額面通りに受け取るとこの楽曲の語り手である“僕”と「僕と君ならきっと越えて行けるさ」と発したもう1人の“僕” (?) が「新世界」には同居しているのである。野田洋次郎の書く歌詞世界の常套手段であった“僕”と“君”の2人で世界を精査していく姿勢というのは「新世界」にはどうも当て嵌まらないようだ。それ故に《「僕も君ならきっと越えて行けるさ」》や《「この時空で最期の恋ならば 君と越えて行きたい」》という台詞や後半のリリックも不可解ではあるのだが。


 また「新世界」のリリックに散見されるRADWIMPSの過去の楽曲を彷彿とさせるフレーズの数々も看過できない。《見てたいものだけに ピントを合わせてはあとはモザイクで地球を覆ったの》という歌詞は「愛し」を、《僕ら空に落ちてく ビルは剥がれ堕ちてく 金は皮膚を剥いでく 罵声は跳ね返ってく》という歌詞の絶望感は「カイコ」でいう“最後のお祭り”を彷彿とさせ、《綺麗な0を描いてさ 新しくしよう「今」》は「アイアンバイブル」での“ゼロを掛けないで”を、《実況席で今日も構える神よ》は「実況中継」を。他にもあるがこう言ったリリックの数々が意図的に綴られているのなら、これは野田洋次郎がこれまで睨み合ってきた世界に対するアンチテーゼ且つ総決算のように受け取る事が出来る。


きっと同じ世界には もう戻らない「ただいま」と開けたドアの先は『新世界』》コロナウィルスが終息した後に訪れる世界を「新世界」と謳うこの楽曲の根幹に強くあるのはアフターコロナの世界への示唆ではなく、そんな新世界の入り口を望遠する過渡期である現在=“旧世界”に対する痛烈な批評性である。特に《僕ら長いこと 崩れる足元を「上向いて歩けよ」と眼をそらしすぎた》というリリックは僕が敢えて言うまでもなく強烈なインパクトを放つ。コロナウィルスは僕らから沢山の物を奪っているが、同時にこれまで僕らが惰性で黙認してきた社会の歪みを顕現させてくれている。この楽曲を締める《明日の朝あたり 世界を変えにいこうかね》というリリックは正にそんな脆弱化した社会を自らの手で変えて行くという覚悟の表れなのだろう。それは分かる。それは分かるのだが「新世界」にはリリックも含め不可解な点が多すぎる。この楽曲に対する皆さんの感想や考察はTwitterやコメント欄で随時募集しています。僕はもうお手上げです。(やまだ)
 (RADWIMPS「新世界」)