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RADWIMPSにとってメジャーデビューから15年という1つの節目であった2020年。昨年のインタビューで野田洋次郎(Vo.&Gt.&Piano)が「もう未来が楽しみでしょうがないよね」と期待に胸を膨らませていたのが遠い昔のことのようだが、本来であればアメリカやヨーロッパ、アジアを回るワールドツアーに国内のドーム・アリーナツアーという大規模なライブツアーを開催する予定であった。だが無情にもコロナウィルスの影響でそれらが延期/中止となってしまい、彼等が味わった精神的ないし経済的なダメージは筆舌に尽くし難い。だがそんなコロナ禍でも…こんなコロナ禍だからこそ野田洋次郎の音楽製作は拍車をかけていき、RADWIMPSは3月から7月まで毎月連続で新曲を発信し続けた。そして先日にリリースされたEP『夏のせい ep』はそんなRADWIMPSが絶えず音楽に刻印し続けた絶望と希望がありのままにコンパイルされた作品である。RADWIMPSのコロナ禍での動向は以前に当ブログでも取り上げたので気になる方はそちらの方もチェックして頂きたい。

実は『夏のせい ep』のリリースとその詳細が公式から発表された時、僕は若干の違和感を抱いていた。コロナ禍に製作された「Light The Light」や「新世界」、「ココロノナカ (Complete ver.)」と言った楽曲群をフルアルバムではなくEPという形で総括すること自体は大賛成だったのだが、そんなEPの表題曲に昨年の時点で製作済みであった「夏のせい」が起用されている事に対する違和感である。コロナ以前に製作されていた楽曲がコロナ禍で製作された楽曲と同じ作品にコンパイルされた時に如何してもコンセプトのズレが生じてしまうのではないかと危惧していたのだ。

RADWIMPSの新曲である「夏のせい」は夏が本来持っている解放感を歌いたかったという野田洋次郎の想いが壮大なストリングスのサウンドスケープからも充溢し、透明感のあるアンサンブルに僕らが抱く共通意識としての夏模様が、高揚感が、鼓動が帯同していくような素晴らしくドラマティックな楽曲である。ただ同時に誤解されやすい曲でもある。歌詞にある《夏のせいにして どこまででも行こう》《忙しない だらしない 今までない 二度とこない 果てとしない夏の予感》《不確かと不自由だけ 抱えた僕らのこと輝かすのが 得意な季節》といったフレーズが昨年の8月に書かれたものでありながら、期せずしてコロナ禍でその様相が根底から変わってしまった今年の夏を歌っているように聴こえてしまうからである。そういった指摘に対し野田も「聴く人が自由に感じてくれていいんですけど、歌詞をあんまりコロナと結び付けられても困るなとは思った」と発言している程である。先述した僕個人が抱いた違和感にも通じるがそのリスクを冒してまでもRADWIMPSは何故「夏のせい」を表題曲にしてコロナ禍に発表してきた楽曲群とセットでコンパイルしてみせたのだろう。そんな謎は『夏のせい ep』を初めて通しで聴いた時に解けた気がした。野田洋次郎にとって「夏のせい」は希望なのだと気付いたのだ。「ココロノナカ (Complete ver.)」で歌われている《戻りたい明日》の姿そのものだと。「新世界」に象徴されるようにコロナウィルスに翻弄される世の中やそこで炙り出される人間の醜態と真正面から対峙してきた彼等が敢えてコロナ以前に製作した「夏のせい」を表題曲に掲げている姿が何よりも前向きなメッセージなのである。本来あるべきだった物がなくなってしまい、その中で様々な情報や思想が錯綜するこの混沌とした現代社会を表現しているのだろうか「夏のせい」のMusic Videoでは水の入っていないプールの中でアルパカや山羊と共にメンバーが演奏するという実に斬新な映像に仕上がっている。

RADWIMPSというロックバンドがコロナ禍で失ったものは沢山あっただろうが、同時に得たものもあったはず。彼等が今年に開催する予定だったツアーは東京でオリンピックが開かれる前後に日本代表として世界各地で僕らの音楽を鳴らそうというバンドの強い想いから『こんにちは日本 〜KONNICHIWA NIPON〜 TOUR 2020』と名付けられていた。オリンピックもライブツアーも今年中の開催は叶わなかったが『夏のせい ep』はそれに負けず劣らずバンドの矜持が表れた作品である事は間違いない。(やまだ)


(RADWIMPS「夏のせい」Music Video)