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お知らせです。
この度、邦楽ロック系個人音楽ブログ日本一のアクセス数を誇るあの『ロッキン・ライフ』に寄稿させて頂くことになりました。『RADWIMPS 野田洋次郎が追い続けたレゾンデートルの変遷』という記事です。この雑記の最後に記事のリンクを掲載しますので、気になった方は是非宜しくお願いします。今回は自分にとって物凄く特別な経験となったので、ちょっとこのブログでは寄稿させて頂くことになった経緯とその中で芽生えた幾つもの感情をここに残したいと思います。

音楽ブログ『ロッキン・ライフ』の運営者である“ロッキン・ライフの中の人”さん(以下「ロキ中さん」)から最初に寄稿の話を頂いたのは、1年半前の6月下旬のことでした。きっかけは僕が執筆をしたRADWIMPS『ANTI ANTI GENERATION TOUR 2019』のライブレポを読んで下さったロキ中さんからお褒めの言葉を頂いたことです。それだけで身に余る光栄光栄だったのですが、その流れで寄稿の話も頂いてしまい「僕なんかで良ければ是非…!」と頭を下げたのでした(スマホ片手に本当に下げてました)。


RADWIMPSの記事でリアクションを頂いたので、ここは彼等の記事で応えるのが一番良いという所までは即決したのですが、何を書くかについては恐ろしい程にノープランでした。当時は映画『天気の子』が『君の名は。』に引き続き大ヒットをしていて、劇伴を務めたRADWIMPSの活動もライブに新譜とかなり充実したものでブログを書くタネは幾らでもあったのですが、そんなトピックスから1つ摘んで記事にするのは自分が運営する(というほど大したものではないですが…)ブログのフィールドでも出来てしまうなと思ったのです。せっかく『ロッキン・ライフ』さんに寄稿をするなら、自分のフィールドでは書けないような大きなテーマについて書きたい。ネタは無いくせにそんな漠然とした想いだけは一丁前に肥大していきました。

果たしてRADWIMPSの何を書けばいいのか分からず終いの悶々とした日々が続いて気が付けば2019年の大晦日。ロキ中さんから寄稿のお話を頂いてから早6ヶ月が経過していました。何も書けないまま年を跨いでしまうという虚無感を抱えながら僕は『第70回NHK紅白歌合戦』を視聴し始めました。RADWIMPSにとって3年ぶりにして2度目の紅白歌合戦への出場が予定されていたからです。そこで彼等は“天気の子 紅白スペシャル”と銘打った一夜限りのSPメドレーを「大丈夫」という曲で締めていました。

《僕は今日から君の「大丈夫」だから》

そう歌うRADWIMPSの姿をテレビで視聴した時に妙な感覚に襲われました。正直、僕はこの「大丈夫」という曲をあまり好意的に聴いてきませんでした。飽くまで個人的な感想として映画『天気の子』のラストシーンでこの曲が流れた時に「大丈夫」というフレーズがとても主人公の帆高くんの中で都合良く昇華されてる印象を受けてしまったのです。ごめんなさい。だからこの曲のフルバージョンがリリースされても自発的に聴くことはありませんでした。


ただ2010年代最後の紅白という舞台でこの曲をパフォーマンスする彼等の姿を見た時にRADWIMPSというロックバンドが「25コ目の染色体」から紡いで来た壮大なストーリーに大きな終止符が打たれたように感じたのです。終止符というとマイナスの意に受け取られてしまうかもしれませんが、そうではありません。ただ野田洋次郎にとっての何かが「大丈夫」で結実した気が何となくしたのです。ただ直感的にそう思ってしまっただけで自分の中に何の根拠も、それを人様に説明する論理もありません。じゃあこの“何となく”の正体を知る為に文章を書こうと思ったのです。


ただ逼迫した状況は続きました。紅白で「大丈夫」を聴いた時に抱いた感覚の正体が漠然とし過ぎていて何から書き始めればいいか全く分からなかったのです。書いては消して書いては消してとそんな終わりの見えない堂々巡りの中で僕は“レゾンデートル”という言葉をひょんな事から知りました。レゾンデートルとはフランス語で存在理由という意味です。それも他者が認める存在理由ではなく、自分自身が求める存在理由です。それを知った時に自分が書きたいのはこれだと思いました。つまり野田洋次郎が追い続けたレゾンデートルの変遷と結実です。それをメジャーデビュー曲である「25コ目の染色体」から現在まで紡いできた歌詞という側面から精査しようとしたのです。


RADWIMPSの歴史に於けるその曲の存在意義を考える時に僕は客観的事実である野田洋次郎やバンドの状況にプライオリティを置いて思索にふけます。ただロキ中さんに寄稿する記事で目指したのはそういった客観的事実をなるべく度外視した歌詞世界のみで見えてくるレゾンデートルの変遷でした。これまで自分が外側から築いてきたRADWIMPS像を、何とでも解釈が出来てしまう歌詞を使って内側から築いてみるという全く真逆のアプローチを試みたのです。


正直、あの記事をRADWIMPSに造詣の深いリスナーの方が読んだ時にどんな反応をされるのか僕は全く想像が出来ません。それくらい自分の為に書いてしまった記事だからです。それ故に「これは詭弁だ」と一蹴される事も全然あると思います。ただ間違いなく言えるのは僕の中でこれ以上のRADWIMPS論を書ける気がしません。それくらい出し尽くしました。もう何も出ません。出せって言われても「野田洋次郎、背高い」くらいしか書けないと思います。


いつまで僕がRADWIMPSというバンドの音楽と人生を併走させるのか不明ですが、彼等の音楽を聴いていく中で急にこのバンドの実像を失うことがあると思います。そんな時は自分が書いたこの記事に立ち返って、僕が全身全霊で聴いてきたRADWIMPSの音楽の存在を確かめたいと思います。そして欲を言えば他の誰かにとってもそんな記事になってくれたらいいなと願っています。(やまだ)